またその後、1520年にも岩城勢1000騎、白河勢500騎で那須山田城を攻め、その翌年も那須で戦をしているようです。
那須での戦がどのようなものか知りたいのですが?
関ヶ原の戦いで中庸・西軍寄りを決め戦後大きく減封及び転封された常陸の佐竹家ですが実際の評価はどの様なものなのでしょうか?
関東には後北条家、徳川家、越後からの上杉家、宇都宮・小山・結城・小田・成田・江戸他諸氏1550年から1600年までには常陸を領していたものの佐竹氏よりは江戸氏の方が有力だったという学者もおります。
奥羽の伊達家や芦名家からみれば強大な敵、後北条家から見ても油断ならない相手。
北条氏康佐竹義重佐竹義宣伊達政宗最上義光上記5人を【①知名度】【②軍事力】【③内政力】【④外交力】【⑤家臣団】【⑥運】で各10点満点で評価するなら、あなたはそれぞれ何点で評価しますか?
家にある氏神様が祀ってある社の中に、御札があり、巻いてある紙を外して見てみると、奉修・八幡鎮座 (・は読めなかった)裏に明治15年とか書いてありました。
うちの先祖は江戸時代に庄屋や組頭を勤めていました。
しかしそれ以前の記録が残っておりません。
そこで氏神様を見てみれば手掛かりがあるかもしれないと思い、見てみました。
調べてみると"八幡神"は清和源氏の氏神のようです。
推測ですがうちの先祖は江戸以前は武士だったのではないかと思うのですが、早計でしょうか。
みなさんの見解をお教え下さい。
ちなみに私が住んでいるところは、江戸以前は清和源氏佐竹氏の支流の管轄だったようで、また、城のある台地の東端に私の住まいがあります。
また、仏壇に戒名がたくさん載っている大きな位牌があり、中央の家紋と"先祖代々"の文字の右に、 観是租定門左に明眼禪定尼とありますが、意味がわかりません。
宜しければこちらの解読もお願いします。
河内源氏の傍系にあたる平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏が、南北朝の内乱や観応の擾乱時にとった行動経緯(誰の側に味方したのか?
誰と戦をしたのか?
など・・)を教えて下さい。
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【佐竹家譜】より抜粋。
連合軍、総勢1万7千を率いて北進。
対して伊達軍は8千。
伊達軍は本宮の観音堂山に本陣を置く。
景綱をはじめ、伊達軍は末端の足軽まで奮闘するが、多勢の連合軍に押しに押される。
成実の活躍で本陣の壊乱を押さえた始末。
陽が落ち、連合軍が兵を退いたので九死に一生を得る。
その晩、義重の叔父【小野崎義昌】が片倉景綱幕下の【太宰金七】により惨殺される。
復讐を誓い弔い合戦に臨むが、居城舞鶴城の留守を預かる嫡子の義宣より居城急襲の知らせあり。
これは景綱が義重の正室で晴宗の娘の小大納言に手廻しをした事による偽報だと後に判明。
この知恵袋には過大評価を連呼する特定の方が居て、伊達政宗を執拗に卑しめています。
嫌いなのは良いと思いますし、実際に過大評価があるのも理解できます。
ただ、嫌いだからと言う理由で事実を歪めてる発言も多く見受けられます。
その方は佐竹氏の【急用説】を事あるごとに唱えてますが、相手側である佐竹氏の資料から判った事なので、私は信憑性が高いと思っています。
私はできるだけ可能性が高い回答を得たいと思っています。
人取り橋の戦いについて、こんな事も知ってるよなどの回答を待っています。
よろしくお願いします。
もし可能なら、命のやり取りに【急用説】を唱えた方の納得が行く回答も聞かせてほしいです。
また、この本国は変わる事が無いのでしょうか?
佐竹氏を祖先に持つ者が常陸から出羽そして上野から江戸などに移り住んだ場合でも常陸になるのでしょうか?
気になります。
わかる方、詳しい方、回答願います。